無察双掌 ~虚実の極意 幻の隠し手~
- 中心力護身法 武芸塾
- 4 日前
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長年、武術に携わると、やがて何をすれば良いかが明確に見えてくる。それは、まるで単純なカラクリのように思える瞬間だ。武術の真髄ともいえるその理にたどり着くには、長い道のりがある。
正中心練磨に入っても、技が上手く決まらず、虚しさを感じる瞬間もあった。それでも、試行錯誤を重ねるうちに、そのカラクリの一端が見えてきた。
無察双掌(むさつそうしょう)とは?
それは、反応する手と反応しない手のことだ。相手に悟られることなく、相反する二つの手の感覚や動きを使い分けることで、相手に力を発揮させず、有利に技を掛けることができる。
技が効かない時、それはほとんどの場合、相手に反応されて防御されている。体格や体力が同じであれば、拮抗するのは当然のことだ。
しかし、もし相手に反応されなければ、相手は力を発揮できる状態ではないため、たとえ弱い力でも技は効く。自分より優れた体格や体力を持つ相手に対しても、技が効く確率が飛躍的に上がる。
この技は、相手の最大パフォーマンスを発揮させないための術ともいえる。
巧みな使い手は、多かれ少なかれこの理を用いている。それを意識しているか、無意識で行っているかの違いはあるだろうが、より深く繊細に鍛錬を重ねれば、この「反応する、反応しない」の切り替えが明確にできるようになる。
いつ頃、気づいたか?
佐川派大東流に通っていた頃、正中心練磨が稽古の中心となり、家で一人稽古をしていた時のことだった。
入り身の練習で、目の前に椅子を置き、スッと入る動きを繰り返していた。その時、上手くスッと入れた時には、不思議と椅子からの反応がない。しかし、下手に入ると、椅子に反応されてしまうのだ。
「無機物にそんなことがあるのか?」と、いぶかしく思う気持ちも無理はないだろう。だが、繊細で精妙な練功を積むと、相手(この場合は椅子)がどんな反応をしているのかを感じ取れるようになる。私自身も最初は「そんなことが、ある?」と驚いた。だが、何度繰り返しても、上手く入り身ができた時には、面白いように反応しない。
慣れてくると、「反応する、反応しない」の切り替えは確実に可能になる。「失敗した…もう一度」は無い。

無察双掌~反応する手・反応しない手~
「無機物に効くはずがない、人間だから効くんだ」という思い込みがあれば、そこで進歩は止まってしまう。
確かに、無機物の方が難しい。人間の方が簡単だ。だから、無機物でその感覚を再現できたら、人間に技を効かせるのはたやすいことなのだ。対人にも難しい部分はあるが、繊細精妙と言う観点からすれば、無機物の方が圧倒的に難しい。
武道や武術で、「そんなに強く持ったらできませんよ、もっと優しく、力は必要ないですよ」といった言葉をよく耳にするだろう。「反応する手、反応しない手」は、たとえ相手を強く握っても効果がある。
これは、武道・武術の一般常識からすればあり得ないことのように思えるが、決してそうではない。ただし、繊細精妙な練功を積んでいなければ、残念ながらその一般常識が当てはまるだろう。
武芸塾の上級者は皆、この理屈を知り、使いこなして技を掛けている。もはや考えるまでもなく、技を効かせようと思ったら、心身はその状態に変わっている。そう、それがデフォルトになっているのだ。
稽古時に「こうすると技が掛からない、でもこうすると技が掛かる」という繰り返しの中で、無意識のうちに相手の反応を観察している。無意識下で、心身はその違いを感じ、その経験を蓄積する。すると、いつの間にか無意識下でその切り替えをするようになり、上達していく。
一般的な流れはこの様なものだろう。しかし、このやり方では、気づける人と気づけない人が出てくるし、何年かかるかも分からない。
これでは、この虚実の極意を掴めるかもしれないし、掴めないかもしれない。やはり、理屈を知って練習する方が確実だ。
自分自身だけの問題ではない。相手と合気して、反応している時と反応していない時の状態を感じ取り、もし相手が反応しているなら、自分をどのように変えれば良いのか? 自分がどうあれば良いのか? それを調節しながら行うことで、その切り替えができるようになる。
無察双掌は、相手のパフォーマンスを発揮させないための、とても重要な技術だ。
だから、確実に短期間で習得しなければならない。何年も、何十年もかかるかもしれない…… などという不明確なレベルで稽古していては、先へは進めないのだ。